麻田奈美エロ画像
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麻田 奈美(あさだ なみ、1953年12月15日 - )は日本で1970年代に活動したグラビアモデル。「りんごヌード」と呼ばれる一枚の写真をきっかけに大ブレイクし、ヌードモデルでありながら当時の青年(団塊の世代・しらけ世代)のアイドルにまで祭り上げられた。なお、「麻田奈美」は芸名であり本名は非公開。


略歴
東京都江戸川区出身。小学生時代にクラシックバレエを習い、中学ではバスケットボール部に所属。都立武蔵丘高校を卒業する頃には当時の日本人としては珍しく、肉感的な体に並外れた巨乳と大きなヒップを持つ豊満な体型に成長した。この若く美しい頃の姿を記録として残してやりたいと考えた母親が、娘が18歳だった1972年秋に写真家・青柳陽一にヌード写真の撮影を依頼。これが雑誌グラビアでのデビューの話へつながり、『平凡パンチ』1973年1月29日号に初グラビアが掲載されると瞬く間にブレイクした。

彼女の名を伝説にしたのは『平凡パンチ』1973年3月12日号に掲載された、青柳陽一によるたった一枚の見開きグラビアである。赤い林檎で股間を控えめに隠したこの写真は「りんごヌード」と呼ばれ、のちに販売されたポスターは当時の青少年の部屋に必ず貼られているとまで言われるほどに売られた。圧倒的な反響から麻田のグラビアは『平凡パンチ』に独占的に掲載され、ヌードの掲載された号は大々的に部数を伸ばし、一説には最高100万部を超えたといわれる。『「ぼくらのオナペット」など公然と性的なコピーをつけられながらも同時に「光と風にたわむれる現代のヴィーナス」(映画監督藤田敏八の表現)とまで言われた。いわゆるアダルトモデルでありながらトップアイドルとしての地位を確立したのは麻田が最初とされる。

この1973年には本田技研工業・ヤシカのテレビCMへの出演や日本コロムビアからのレコードデビュー(『おそい夏 C/W カトレアの花』)など、グラビア以外の活動も話題となった。一時は熊井啓監督から映画への主演オファーも受けたが、製作会社に予定されていた日活が当時ロマンポルノ路線を敷いていたことから、「娘を無事お嫁にやる義務がある」と責任を感じていた母親がポルノ映画の会社であることを問題視したために断念[3]。結局、熊井は企画を仕切り直して関根恵子を主演に据えて『朝やけの詩』(1973年)として製作、東宝系で公開された。また、当時は音楽評論家の伊藤政則との交際関係が報道され、「朝帰り」の状況証拠から性的な噂が流布されたが、これについては伊藤が各種インタビューで再三「だからリーヤはないって」「最後までそういう機会はなかった」「入れたことはないよ」など直接的な性関係を否定し、「プラトニックな関係」を強調する発言を行っている。

グラビアの撮影はほとんどがデビュー以来の青柳陽一で、ほかの写真家による撮影、とりわけヌードはごく少ない。人気絶頂の1974年に突然グラビアから遠ざかり、一時休業。モデルのギャラで貯めたお金で年に数度海外に行くなど気ままに暮らしていたが、お金がなくなったということで1976年にグラビアに復帰。その際に選んだ場も『平凡パンチ』だったが、青柳とは別の写真家によるセミヌードだった。トレードマークの八重歯は休業期間中に矯正。

1977年に青柳と再び組んでセミヌードを披露したのち、ついにヌードグラビアを撮影。復帰直後はスリムだった肉体はしだいに丸みを帯びて豊満さを増し、往時を知らないファンからも新しい魅力を支持された。当時ブラジャーのカップサイズは公表されなかったが、一説にはデビュー時に85cm・Dカップだったバストは5年後には90cm・Fカップにまで成長していたという。

『平凡パンチ』掲載の5年間の集大成となる写真集『麻田奈美 青春の記録』を最後に青柳との仕事は終了。しかし直後の1977年から1978年にかけて、競合誌の『GORO』に篠山紀信の撮影によるグラビア「激写」に出演している。篠山は青柳の撮影では見られなかった彼女のワイルドな一面もクローズアップしていた。計3回掲載されたのち、今度は本当にグラビアを離れた。肥満を気にして引退を決意したといわれるが、明確な理由は語られなかった。


>>ウィキペディア 星ありす
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